二十四節気(にじゅうしせっき)とは
日本には四季があり、その時々の季節感を大切にして暮らしの中に取り入れてきました。
最近は季節感を感じるというより、寒いか暑いかという極端な体感なのですが、
年齢的にも暑がりやさんになったからかもしれませんが……
一年の太陽の通り道を24つに区切り、そのひとつひとつを節目として季節の移ろいを感じるものを
表したのが「二十四節気」。
1年を春・夏・秋・冬の4つの季節に分けて、さらに6つに分けたものになります。
(4つの季節×6つ=24節気) 春分、夏至、秋分、冬至など今でも季節を表す言葉、行事などもあるので
馴染深く、生活に根ざしていますよね。
七十二候(しちじゅうにこう)とは
七十二候は、二十四節気のひとつひとつをさらに3つに分けて、そのひとつひとつに季節の風物を感じられる
言葉を表したもの。それは、自然の変化を意味する言葉で気象や、植物、動物、昆虫などが登場しています。
24節気をさらに3つに分けて(24×3=72候)。
72候はだいたい5日単位で名前がつけられています。
季節感を大切に暮らしに取り入れていきたい
若い頃から、季節感を大切に暮らしたいと思ってきましたが、毎日の生活に必死になり、
仕事終わり自宅に帰って、ご飯食べたらバタンキュー。休日はひたすら体力回復に努めて
月曜からの仕事に備える生活でした。スポーツやアウトドアな趣味もなく、季節感を体で感じるような
楽しみはしていなかったです。
ささやかながら、ベランダでハーブを育てるとか、自宅付近の里山を30分程散歩するとかその程度。
今では素敵な趣味と言えるかもですが、若い頃はあまり大きな声で言えるような感じでもなかったと記憶しています。かといってそれを極めたわけでもなく、なにをするのも中途半端的な感じでした。
50歳を過ぎた辺りから、季節感を大切にしたいという思いが強くなってきました。
季節感を大切に暮らす為にしていること
特別何かという訳ではないですし、結構あたりまえに皆さんされていることかもしれませんが、
改めて感じる取るようにするだけでも、少し豊かな気持ちになれるのです。
旬の食べ物を食べる
その季節ならではの食物を選んで食べるようにしています。
そのひとつは、トマトが好きなのですが、夏の季節以外はなるべく買わないようにしています。今の時期のトマトは味も濃くてとても美味しいです。
野菜などはなるべく旬がわかるように、安心安全にこだわった新鮮野菜が届く定期宅配サービスを利用しています。
もちろん、近くのスーパーでも買い物はしていますし、すべてがこだわっているわけではなく、半々ぐらいのゆるい感じでやっています。
季節の行事はできる範囲で参加する
人混みがすごく苦手ですぐに疲れてしまうので、積極的には難しい事が多々あります。
とくに住んでいる地域は様々な国からの観光客の方も多く、どこへ行っても人、人、人ばかりです。
特に近年は更に凄い人数になっているように感じています。
しかしそんな中でも、行事を大切にしたいという志だけは忘れずにと思っています。(口だけのところ多々あり)
例えば、住んでいる地域の氏神様の行事の参加をするようにしています。
ここ数年は毎年、氏神様の神社の6月30日にある「夏越の大祓」には行っています。
そして、京都では6月30日に「水無月」を食べる風習があるのでしっかりいただきます。
京都の夏の風物詩、祇園祭
上記の写真は先日仕事終わりに訪れた、祇園祭の鉾建てされた直後の鶏鉾と月鉾。
人もまばらで、近くまでよって荒縄で縛って固定されている縄絡みもみられました。祇園祭の独特の賑わうお祭り感はまだまだ感じられませんでしたが、私にはこれで十分に楽しめました。
若い頃なら、お祭りとして物足りないと感じたかもしれませんが、人混みもなく、近くでゆっくりと見送(タペストリー)も拝見できてもう満足。
季節の行事に参加していると言えないという意見もあるかもですが、私はこれでよいのです!
旬のお菓子をいただく
年齢的なものもあるからでしょうか、近年は和菓子を好むようになってきました。
おいしい緑茶やカフェオレボウルで点てたお抹茶などと一緒にいただくと、
ほっこり感ワールドになります。
和菓子は季節の行事と関連している物が沢山あります。
春分には「ぼた餅」、お花見の季節には「おだんご」「桜餅」、5月5日は「柏餅」6月30日には「水無月」
夏は「葛まんじゅう」秋分は「おはぎ」などなど
普通におやつとして食べているのですが、食べるときに改めて季節を感じるようにするだけで、
なんとなく「あー季節をいただいているのだなー」と思えるのです。
私の「ものさし」を使ってみる
すべてオールオッケー。自分が「それで良い、それが良い」と思ったことを大切にしていくと決めています。
そう考えられるようになったのは最近で、それまでは、いろんな人の立場や思いを鑑みての自分の立ち位置を決めていたように思います。
他人のことを考えている気になっていたけれど、結局それで自分を失っていたことがたくさんありました。他人さんはその人だけのものだから、こちらが何とかよいようになればと思って動いてもお互いにとってベストなことではなかったのかな?と今になって思います。
その人に任せる、ゆだねることが後々にも良いようにつながっていくのではないかという考えです。
山はあまりなかったけれど、谷は谷底の更にその底ぐらいまで覗きに行くことばかりでした。
そんな私は今になってようやく柔らかく考えることができるようになってきました。